昨今の大学における神話と童話

大学改革とそれによってもたらされたすばらしき世界。

美しい国

あるところに「優れた」為政者がいました。 彼はたしかに「優れて」いましたが、それは前の為政者たちがあまりにも酷く、そして今の政権の仲間や若手もはっきりいってオツムは不自由であったからであります。ですが、代わりはいないので、彼は「優れた」為政者として、絶大な権力をほしいままにしました。 そして、自分の意見と異なる意見を持つ者を遠ざけました。 自分と同じ意見を持つお友達で周りを固めました。 特に、いわゆる「専門家」の言うことは信用しませんでした。昔それでイヤな目にあったことがあるからです。


あるとき、教育のことが問題となりました。 教育を改革する必要がある。それも数値目標を掲げて。お金持ちたちはそう言いました。
為政者は思いました。偏差値60以下の人間は、教育する価値はない。税金のムダだ。仕事に直結することを社会で学べばよい。 為政者は、全国とういつ学力テストを実施して、偏差値60以下の生徒・学生を学校から追い出しました。またそれらが在籍する学校をつぶしました。数値目標の達成のために。「憲法違反だ」専門家はいいましたが、為政者は「解釈の変更」で押し通しました。


改革は断行されました。 「ちょっとそれは」とマスコミは言いましたので、為政者はそれを睨んでつぶしました。 追い出された生徒・学生はとても悲しみましたが、一部の生徒・学生は大喜びしました。ネットで遊ぶ時間が増えるからです。「為政者マジりすぺくと」為政者はその書き込みを見て、自分は間違っていないと確信しました。 その分税金が減ったので、お役人たちも喜びました。


 ところが、次の年、全国とういつ学力テストを実施してみると、不思議なことが起こりました。偏差値60以下の人間が、まだ8割以上いるのです。 そして、その割合は小数点以下まで、前回と同じでした。為政者は、不気味に思いました。たしかに、前回の偏差値ランクの下位は追い出した筈です。理解出来ぬまま、「追い出せ! 潰せ!」為政者は叫びました。 先生たちは抗議しましたが、殺されました。 
専門家は為政者に「偏差値というのはそういうものではない」と言いましたが、為政者は、「専門家の言うことを聞いていて改革ができるか」「私が判断する」「私に賛成する専門家もたくさんいる」といって方針を貫きました。


 しかし、その次の年、全国とういつ学力テストを実施してみると、また不思議なことが起こりました。偏差値60以下の人間が、また、8割以上もいるのです。そして、その割合は小数点以下まで、前回と、そしてその前とも同じでした。為政者は、この「偶然」に背筋が凍りました。 恐怖に支配された為政者は、彼らを追い出しました。 為政者はこれで安心だ、と思いました。


けれども、その次の年、全国とういつ学力テストを実施してみると、不思議なことが起こりました。偏差値60以下の人間が、まだ8割以上いるのです。割合も同じです。為政者はおかしい、と思いましたが、自分の決めたことです。為政者は、ちょっとお腹が痛くなりましたが、彼らを追い出しました。 


 不思議なことに、その次の年、全国とういつ学力テストを実施してみると、状況は同じでした。偏差値60以下の人間が、まだ8割以上いるのです。 為政者はよくわからなくなりましたが、彼らを追い出しました。
こうして、気がついた時には、為政者のお友達だけがいる、美しい国になっていました。めでたしめでたし。

国立(後編)

三  院生は、大きくなりましたけれど、出自が私立なので恥かしがって学会に顔を出しませんでした。また論文に名前を入れてはもらえませんでした。けれど一目院生を見た人は、みんなびっくりするような優秀な実験の手際でありましたから、中にはどうかしてその院生を見ようと思って、研究室に来た者もありました。

  教授や、准教授は、 「うちの院生は、内気で恥かしがりやだから、人様の前には出ないのです」と、言っていました。  奥の間で教授は、自分の名前でせっせと論文を造っていました。院生は、自分のアイデアで、きっと書いたらみんなが喜んで大型資金が取れると思いましたから、そのことを教授に話ますと、そんならお前の好きなテーマをためしに、教授の名前で出してみるから書いて見るがいいと答えました。
 院生は、私立で鍛えられた手法を活かして上手にかきました。教授は、それを見るとびっくりいたしました。誰でも、その計画書を見ると、外部資金を出したくなるように、その計画書には、不思議な力と美しさとが籠(こも)っていたのであります。 「うまい筈だ、優秀な院生が描いたのだもの」と、教授は感嘆して、准教授と話合いました。

  教授を代表者に計画が通ると「その構想はいいね」と、言って、朝から、晩まで他大学の研究者や、学会の大物がこ研究室に来ました。果して、院生が構想した研究計画は、みんなに受けたのであります。

  するとここに不思議な話がありました。この研究計画から着想した論文は決して査読の海で顛覆(てんぷく)したり溺(おぼ)れて死ぬような災難がないということが、いつからともなくみんなの口々に噂となって上りました。 「優秀な計画だもの、この計画で論文をあげれば、門下さまもお喜びなさるのにきまっている」と、その大学の人々は言いました。  研究室では、潤沢な資金があるので教授は、一生懸命に朝から晩まで論文を造りますと、傍(かたわら)で院生は、睡眠不足で頭の痛くなるのも我慢して必死に実験をしていたのであります。 「こんな人間並でない自分をも、よく育て可愛がって下すったご恩を忘れてはならない」と、院生はやさしい心に感じて、大きな黒い瞳をうるませたこともあります。

  この話は遠くのほうまで響きました。遠方の大学研究者やまた、企業研究者は、データを手に入れたいものだというので、わざわざ遠い処をやって来ました。そして、その着想を元にして外部資金を獲得を目指し、またそれを論文にしていきました。だから、研究室の名声は高まり、教授の名前は天まで昇りました。 「ほんとうに有りがたい教授様だ」と、いう評判は世間に立ちました。それで、急にこの研究室が名高くなりました。  教授の評判はこのように高くなりましたけれど、誰も、に一心を籠めて実験に取り組み論文のアウトラインを描いている院生のことを思う者はなかったのです。従ってその院生を可哀そうに思った人はなかったのであります。

  院生は、疲れて、折々は月のいい夜に、窓から頭を出して、遠い、私立大学を恋しがって涙ぐんで眺めていることもありました。
 四  ある時、南の方の国から、企業研究者が入って来ました。何か大学へ行って、優秀なソルジャーを探して、それをばこきつかって金を儲けようというのであります。  企業研究者は、何処から聞き込んで来ましたか、または、いつ院生の姿を見て、国立の人間ではない、主流ではない素性の研究者であることを見抜きましたか、ある日のことこっそりと年より教授の処へやって来て、院生には分らないように、研究室に大金を出すから、その院生を売ってはくれないかと申したのであります。  教授は、最初のうちは、この院生は、神様のお授けだから、どうして売ることが出来よう。そんなことをしたら罰が当ると言って承知をしませんでした。企業研究者は一度、二度断られてもこりずに、またやって来ました。そして年より教授に向って、 「昔から私立出身者は、不純なものとしてある。今のうちに手許(てもと)から離さないと、きっと悪いことがある」と、誠しやかに申したのであります。  年より夫婦は、ついに企業の人間の言うことを信じてしまいました。それに大金になりますので、つい金に心を奪われて、院生を企業に売ることに約束をきめてしまったのであります。

  企業の人は、大そう喜んで帰りました。いずれのうちに、院生を受取りに来ると言いました。  この話を院生が知った時どんなに驚いたでありましょう。内気な、やさしい院生は、大学を離れて幾百里も遠い知らない企業に行くことを怖れました。そして、泣いて、年より教授に願ったのであります。 「私は、どんなにも働きますから、どうぞ知らない企業へ売られて行くことを許して下さいまし」と、言いました。  しかし、もはや、鬼のような心持(こころもち)になってしまった年より教授は何といっても院生の言うことを聞き入れませんでした。  院生は、室(へや)の裡(うち)に閉じこもって、一心に実験にとりくんでいました。しかし年より教授はそれを見ても、いじらしいとも哀れとも思わなかったのであります。  月の明るい晩のことであります。院生は、独り波の音を聞きながら、身の行末(ゆくすえ)を思うて悲しんでいました。波の音を聞いていると、何となく遠くの方で、自分を呼んでいるものがあるような気がしましたので、窓から、外を覗いて見ました。けれど、ただ青い青い海の上に月の光りが、はてしなく照らしているばかりでありました。  院生は、また、坐って、論文をかいていていました。するとこの時、表の方が騒がしかったのです。いつかの企業人が、いよいよその夜院生を連れに来たのです。大きな鉄格子のはまった企業研修所に入れに来ました。その研修所の中には様々な就活生などを入れたことがあるのです。  このやさしい院生も、やはり新人だというので、挨拶やらマナーやら、営業研修やら朝のラジオ体操やら同じように取扱おうとするのであります。もし、この研修所を院生が見たら、どんなに魂消(たまげ)たでありましょう。  院生は、それとも知らずに、下を向いて論文を描いていました。其処(そこ)へ、教授と准教授とが入って来て、 「さあ、お前は行くのだ」と、言って連れ出そうとしました。

  院生は、書きかけの論文に、せき立てられるので名前を入れることが出来ずに、それをみんな赤く塗ってしまいました。  院生は自分の悲しい思い出の記念(かたみ)に、二三本の書きかけの残して行ってしまったのです。 

 五  ほんとうに穏かな晩でありました。教授と准教授は、うちに帰って寝てしまいました。

  その年のことであります。急に空の模様が変って、近頃にない大不況となりました。ちょうど企業人が、元院生を檻のついた研修所に入れてあった頃であります。 「この大不況では、とてもあの企業は助かるまい」と、教授と、准教授は、ふるふると震えながら話をしていました。 
 年が明けると沖は真暗で物凄い景色でありました。その年、難船をした企業は、数えきれない程でありました。

  不思議なことに、その研究室の論文は、どんなできがよくてもりじぇくとされるようになりました。たまたま、何回だしてもへその曲がった査読者、シニアエディターに当たるのです。それから、その研究室は、不吉ということになりました。その年より教授、准教授、は、神様の罰が当ったのだといって、それぎり研究をやめてしまいました。 忽ち、この噂が世間に伝わると、もはや誰も、研究室に参詣する者がなくなりました。こうして、昔、権威であった教授は、今は、大学の荷物となってしまいました。そして、こんな研究室が、この大学になければいいのにと怨(うら)まぬものはなかったのであります。 幾年も経たずして、その大学は門下の政策で亡(ほろ)びて、失(なく)なってしまいました。



赤い蝋燭と人魚 赤いろうそくと人魚

国立(前編)

 研究者の卵、院生は、国立にばかり棲んでいるのではありません。私立にも棲んでいたのであります。
  私立大学のキャンパスは、青うございました。ある時、ベンチの上に、私立大学の教員がすわって、あたりの景色を眺めながら休んでいました。

  雲間から洩(も)れた月の光がさびしく、キャンパスの上を照していました。どちらを見ても限りない、雲がうねうねと動いているのであります。  なんという淋しい景色だろうと教員は思いました。自分達は、国立大の研究者とあまり姿は変っていない。企業の人間や、また底深い海の中に棲んでいる気の荒い、いろいろな事務員とくらべたら、どれ程国立大の教官の方に心も姿も似ているか知れない。それだのに、自分達は、やはり魚や、獣物等といっしょに、冷たい、暗い、気の滅入(めい)りそうな私立大学の中に暮らさなければならないというのはどうしたことだろうと思いました。
  長い年月の間、研究の話をする相手もなく、行政と教育、入試、高校営業、社会貢献その他、掃除当番等に追われている日常を考えると、国立大のいつも明るい研究者の環境に憧がれて暮らして来たことを思いますと、教員はたまらなかったのであります。そして、月の明るく照す晩に、夜の雲の下でベンチに休んでいろいろな空想に耽(ふけ)るのが常でありました。 「国立大の研究室は、すばらしいということだ。国立大学の先生は、ここよりも余裕がありよりもまた獣物(けだもの)よりも人情があってやさしいと聞いている。私達は、サラリーマン同然奴らと一緒に住んでいるが、もっと研究者の方に近いのだから、国立大の中に入って暮されないことはないだろう」と、私立の教員は考えたのであります。  せめて、自分の弟子だけは、賑やかな、明るい、美しい国立大学で育てて大きくしたいという情から、私立の教員は、弟子を国立大学にいれることとしたのであります。そうすれば、自分は、もう二たび弟子の顔を見ることは出来ないが、弟子は人間の仲間入りをして、幸福に生活をするであろうと思ったからであります。  遥か、彼方(かなた)には、海岸の小高い山にある大学の燈火(ともしび)がちらちらと見えていました。優秀な弟子と別れて、一人さびしく貧しい私立大学の中に暮らすということは、この上もなく厳しい生活だろうけれど、弟子が研究さえできるなら、私の喜びは、それにましたことはない。  国立大学の先生は、この世界の中(うち)で一番やさしいものだと聞いている。そして可哀そうな者や頼りない者は決していじめたり、苦しめたりすることはないと聞いている。一旦(いったん)後期課程に迎え入れたなら、決して、それを捨てないとも聞いている。幸い、君達は、みんなよく頭脳レベルは国立の院生に似ているばかりでなく、劣ることはないのであるから―――研究の世界で暮らされないことはない。一度、国立大学の先生が手に取り上げて育ててくれたら、きみを決して無慈悲に捨てることもあるまいと思われる。  


 二  海岸に大きな大学がありました。大学にはいろいろな研究室がありましたが、ある建物の中にその研究室がありました。  その家には年よりの教授と准教授が住んでいました。准教授が実験して、教授が論文を書いていたのであります。こ研究室の助教や、また附近の研究室の人が教授へお詣(まい)りをする時に、この研究室に立寄っていきました。

  キャンパス山の上には、松の木が生えていました。その中にお宮がありました。海の方から吹いて来る風が、松の梢に当って、昼も夜もごうごうと鳴っています。そして、毎晩のように、そのお宮にに設置されたLEDがちらちらと揺(ゆら)めいていますのが、遠い海の上から望まれたのであります。  ある夜のことでありました。教授は准教授に向って、 「私達がこうして、暮らしているのもみんなソルジャーたる院生のお蔭(かげ)だ。優秀な院生の実験データがなかったら、外部資金が取れない。私共は有(あり)がたいと思わなければなりません。そう思ったついでに、院生研究室にいってねぎらって来ます」と、言いました。 「ほんとうに、お前の言うとおりだ。私も毎日、院生を有がたいと心でお礼を申さない日はないが、つい用事にかまけて、たびたび院生研究室に行きもしない。いいところへ気が付きなされた。私の分もよくお礼を申して来ておくれ」と、教授は答えました。

  准教授は、とぼとぼと出かけました。月のいい晩で、昼間のように外は明るかったのであります。院生研究室へおまいりをして、准教授は事務局前にさしかかりますと、石段の下に例の院生がいていました。 「可哀そうに捨児(すてご)だが、誰がこんな処に捨てたのだろう。それにしても不思議なことは、おまいりの帰りに私の眼に止(とま)るというのは何かの縁だろう。このままに見捨(みすて)て行っては神様の罰が当る。きっと神様が私達にろくな弟子のないのを知って、お授けになったのだから帰って教授と相談をして育てましょう」と、准教授は、心の中(うち)で言って、院生に声をかけると、 「おお可哀そうに、可哀そうに」と、言って、研究室へ抱いて帰りました。  教授は、准教授の帰るのを待っていますと、准教授が院生を抱いて帰って来ました。そして一部始終を准教授は教授に話(はなし)ますと、 「それは、まさしく神様のお授け子だから、大事にして育てなければ罰が当る」と、教授も申しました。
  二人は、その院生を育てることにしました。その子は女の院生であったのであります。そして履歴書の上の方は、人間の姿でなく、私立大学出身の文字がありましたが、お爺さんも、お婆さんも、話を聞いてこれは優秀な研究者になるにちがいないと思いました。 「これは、国立の子じゃあないが……」と、教授は、院生を見て頭を傾けました。 「私もそう思います。しかし国立の子でなくても、なんという優秀な、まじめな院生でありましょう」と、准教授は言いました。 「いいとも何(な)んでも構わない、神様のお授けなさった院生だから大事にして育てよう。きっと大きくなったら、怜悧(りこう)ないい子になるにちがいない」と、教授も申しました。  その日から、二人は、その院生を大事に育てました。院生は、大きくなるにつれて優秀なデータを量産する頼りになるおとなしい怜悧な子となりました。